ー認知症と医療行為の再設計ー
1. はじめに:この問題に「感情」は不要である
今から述べることは、倫理でも福祉でも、ましてや人情でもない。
これは、社会の設計ミスに対する、構造的な是正提案である。
認知症が進行し、もはや自己の意思判断も、感情の連続性も維持されていない人間に対して、現在の社会は当然のように医療資源を投入している。
延命処置はもちろん、点滴、抗生物質、褥瘡(じょくそう)対策、感染症予防まで——
だが問いたい。
それは本当に“人間”に対する医療なのか。
それとも、ただ「死なせたくない」という社会的未練と制度的惰性に支えられた、無意味な運用なのではないか。
2. 現在の医療制度の構造的誤り
医療は、本来「回復を前提とする介入」である。
だが現実には、“ただ生きている”という状態だけで無制限の介入が許されている。
認知症患者の医療は、以下のような矛盾を孕む:
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回復不能であるにもかかわらず、治療行為が日常的に行われる
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痛みや苦しみの自覚がない可能性が高くても、苦痛緩和目的の処置が当然視される
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介護職員・医師・看護師の人手は奪われ、医療財源は底なしに吸われる
このような状況が当たり前になったのは、ただ一つ——
「命は無条件に守られるべき」という非合理な信仰が、制度に組み込まれているからだ。
3. 認知症とは何か——人格の崩壊と主観の死
認知症とは、記憶、思考、判断、感情の統合性が失われ、
“自己”という存在そのものが崩壊する病である。
本人が何を感じているかすら、周囲は正確に把握できない。
ましてや、意思表示もできず、幻覚や妄想に苛まれ、叫び、掴み、暴れ続ける。
これはもはや、「人間の外形をした、自己なき生理反応」であると言って差し支えない。
それを、“人間として扱い続ける”ことのほうが、むしろ侮辱的である。
4. 延命医療の定義と再設計
提案するのは、**「主観を喪失した者に対する医療行為の原則停止」**である。
具体的には:
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認知症の進行が重度となり、本人の意思確認が不可能な状態においては、
治療目的の医療行為(抗生物質投与、心拍維持処置、再発予防的医療など)を停止する。 -
ただし、介護行為(清潔の保持、転倒防止、褥瘡ケア、栄養摂取)は継続される。
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この判断は、医療的指標と第三者機関の審査により運用可能とする。
この設計変更により、社会資源の再配分が可能となる。
5. 「冷酷だ」という批判への回答
予測される反論の第一は「冷酷だ」「人権の侵害だ」である。
だが、こう問いたい:
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もはや自らの人格を維持できない者が、本当に“人”として存在しているのか?
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その存在を苦しみながら維持させられているのは、誰のためなのか?
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本人の尊厳を失わせてまで、“生きさせること”が善なのか?
むしろこの提案は、「死を許すことで、生を尊重する」という構造的な慈悲である。
6. 社会的コストの試算と、未来への再配分
日本の医療費約45兆円超のうち、高齢者医療は約40%を占める。
そのうち、認知症患者の医療費は少なく見積もっても数兆円規模。
加えて、介護職員の人手不足、若者の福祉財源圧迫、医師の過労、家族の経済的負担——
全方位で「限界」はとうに越えている。
それでも、“見ないふり”をしているだけだ。
7. 倫理を超える次元へ——設計思想としての死の合理性
自然は、死を受け入れる。
死は淘汰であり、更新であり、流動性を保つための不可欠な機構だ。
ところが人間社会だけが、死を「失敗」とし、「否定」し、「拒絶」し続けた。
その結果、「生きていること」だけが盲目的に正義となり、
魂のない肉体が延々と維持され、未来が損なわれる設計ができあがった。
そろそろ、終わりを受け入れる設計に戻すべきだ。
それが自然に回帰することであり、文明として成熟することでもある。
8. 結論:人権の“神話”を脱し、人間の本質へ
「生きているから守る」という人権信仰は、ある段階を越えればただの構造的暴力に転化する。
命とは、「意味」と「主体性」がなければ、定義できない。
構造としての死を取り戻すこと。
それは、人間の尊厳を守るために、最も合理的で、最も人間的な選択である。
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これが、死を拒絶し続けた社会への、構造的回答である。