2025年5月2日金曜日

就職氷河期世代を「救う」という欺瞞──リスキリング幻想と企業合理性の壁

かつて就職氷河期と呼ばれた時代、数百万人の若者が社会への入り口を奪われた。彼らはその後、非正規雇用、無業、貧困、孤立といった困難を経ながら、ようやく中高年と呼ばれる年齢に達した。

そして今、政府がようやく「支援」の言葉を口にする。しかしその中身が「リスキリングによる賃金上昇」であると聞いたとき、多くの当事者はこう思ったはずだ。

「それはあまりに遅すぎる。しかも、的外れだ。」


リスキリングでは救えない理由

「中高年のリスキリング」は一見、前向きで誠実に聞こえる。だが、それは現場を知らない人間の発想である。

企業は慈善団体ではない。合理性の塊だ。もし「同じコストで若年者と中高年が選べる」なら、間違いなく若年者が選ばれる。これは好みの問題ではなく、経済原理である。学び直した中高年が新卒市場に再び参戦したとしても、待遇は新卒水準にまで下がる。つまり、うまく就職できたところで「所得向上」どころか、むしろ下降する現実が待っている。

労働市場におけるコストパフォーマンス主義は冷酷だ。年齢とともに「柔軟性」は下がり、「賃金期待」は上がる。だからこそ、中高年の転職は多くの場合、30代前半が限界であり、それ以降の再チャレンジは“見せかけの機会”に過ぎない。


本質的な問題は「企業の自由」の範囲内にある

忘れてはならないのは、氷河期世代の損失が「自己責任」ではないということだ。それは国家政策の失敗であり、構造的な災害だった。彼らが受けたダメージは、偶然ではなく必然だったのだ。

にもかかわらず、いま語られている支援策はすべて「企業の自由の範囲内」で行われるものばかりだ。リスキリングも、再チャレンジ制度も、すべては企業が「選んでくれること」を前提にしている。つまり、「救う」という言葉とは裏腹に、企業の合理性の手前で全てが止まっている。


唯一残された道──成長と福祉

本気で氷河期世代を支援するつもりがあるなら、それは「市場」に頼るのではなく、「国家」が主導するしかない。

具体的には、高度経済成長による“パイの拡大”と、それに基づいた福祉制度の抜本的強化だ。成長によって得た果実を、累進的かつ戦略的に分配する。それしかない。

だが、現実の日本にその意思と能力はあるか?政府の動きは緊縮的で、成長戦略も乏しく、福祉はむしろ切り詰められている。つまり、「本当に必要な支援」は、いま語られている“見かけの支援”よりも、さらに遠い位置にある。


終わりに──希望という演出に騙されるな

リスキリングや再分配は、「希望」という名の演出だ。だが、その希望が現実を直視しないものであるなら、それはむしろ害である。

就職氷河期世代はすでに損失を確定されている。個人の努力では覆せない構造的な敗北を強いられたのだ。ならばまず、その現実を直視することから始めるべきだろう。

無理な希望よりも、冷静な絶望のほうが、未来を考える出発点としてはまだ健全である。

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